野村貴仁氏の変貌ぶりが衝撃【動画あり】


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高知県立高岡高校宇佐分校から三菱重工三原を経て、1990年度プロ野球ドラフト会議でオリックスブルーウェーブから3位指名を受け、入団。小柄ながら150キロ近い速球を武器に1年目から先発・中継ぎ・抑えとして起用される。

1993年には史上2人目となる1イニング4奪三振を記録。

1995年は抑えの平井正史に繋ぐセットアッパーとして37試合に登板し防御率0.98をマークし、リーグ優勝に貢献。1995年12月[1]、年俸でオリックス球団が提示する3900万円に対して、野村は6500万円を主張して折り合いが着かなかったため、2月5日にパシフィック・リーグ初の参稼報酬調停を申請した。調停委員会は3月1日、オリックス球団の提示する3900万円を妥当な金額と認定し、野村の主張する6500万円を退けた。

1996年にもセットアッパーとしてリーグ優勝・日本一に貢献。特に1996年の日本シリーズでは読売ジャイアンツの若き主砲松井秀喜を抑えこみ手玉に取る活躍をみせた。

1997年、シーズン通して好不調が激しく、チームが西武ライオンズとの競り合いに負け優勝を逃すとオフには、木田優夫との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍。巨人では当初抑えとして期待されたが、開幕から力任せに抑えようとすればするほど痛打を浴びる場面が目立ち、首脳陣からの信頼を失って以降は中継ぎとして起用された。

2000年のシーズン前に登録名を「貴仁」から「空生」へ改名。

2001年6月26日、札幌ドーム初の公式戦となる中日ドラゴンズ戦に登板、勝利投手になった。2001年オフに巨人を退団したあと渡米し、メジャーリーグに挑戦。ミルウォーキー・ブルワーズに入団。

2002年のシーズンは21試合に登板するも結果を残せず、マイナーリーグ降格などもあってそのシーズンのオフに解雇された。

2003年に日本ハムファイターズに所属。

2004年には台湾の誠泰コブラズに所属。

現役引退後は地元である高知県へ戻った。2006年10月31日、高知市内で覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕され[2]、同年12月26日付で懲役1年6月・執行猶予3年(求刑・懲役1年6月)の有罪判決を言い渡された[3]。この裁判の公判における供述によると、野村はオリックス在籍時に外国人選手から勧められてアンフェタミン系興奮剤の「グリーニー」に手を出し、同僚選手にも分け与えながらメジャーリーグ挑戦のためアメリカに渡るまで服用を続けていたという[4]。